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平和の旅→広島 (その5) [子ども平和の旅]

第5回静岡市子ども平和の旅  広島へ  (その5)
朝食です。眠そう・・・
12.8.19子ども平和の旅・2日目朝食.JPG

広島駅から宇品港行きの広電に乗ります。
今日行く似島の「学園桟橋前」に行くフェリーは、1日3本しかありません。9時30分に間に合うように。
宇品港で、案内してくれる仁方越さん(広島の先生)と落ち合います。2年ぶりです。
12.8.19子ども平和の旅・似島へフェリーで.JPG
向こうに見えるのは、似島の安芸小富士   富士山に似ているでしょう。だから似島?


似島は、日清戦争の頃から、検疫所(戦争から帰ってくる兵士の防疫のための施設)が置かれました。また、弾薬庫が広島市内から移されました。この土塁は、弾薬庫の周りを囲ったものです。
12.8.19子ども平和の旅・似島 土塁.JPG


軍事施設があった似島は、厳重警戒の下に置かれました。こちらは東側ですが、南側には特攻隊基地もありました。
この桟橋は、第1検疫所や弾薬庫のあった所にありました。弾薬などを運ぶために、線路が設けられていたそうです。昨日お話を聞いた江種さんが学生の時に働かせられていたのが向こう側の金輪島でしょうか。
12.8.19子ども平和の旅・似島から金輪島を臨む.JPG


広島市街地を臨む。大勢の(1万人、いや2万人はいただろうと言われています。)被爆者が、検疫所だから薬があるはずだと、運び込まれました。
12.8.19子ども平和の旅・似島から広島市街.JPG

12.8.19子ども平和の旅・似島第1検疫所跡前桟橋.JPG



馬匹検疫所・焼却場の跡です。本来はもう少し南側にありました。1990年市営住宅建設の際、発掘されました。古代の話ではありません。わずか45年前の遺骨がようやく発掘されたのです。しかも偶然に。
翌年「保存」のために、臨海公園内に移されました。碑が建てられ、フェンスで囲まれていますが、「永久保存しようとしているとは思えない」(仁方越さん)   雨ざらしです。
発掘当時、出てきた骨を、「馬の骨だ」「いや、猿だ」と行政側は言い立てたとのことです。治療痕のある歯の骨が出てきて、しぶしぶ認めたとか。 
本来、軍馬の検疫、死体焼却にあてられた施設が、亡くなった被爆者の火葬場になったのです。
12.8.19子ども平和の旅・似島馬匹検疫所・焼却場跡.JPG


少年自然の家にある、ここに検疫所があったことを記す石碑。
つまり、多くの被爆者が収容された所です。「収容」と言っても、多すぎて、ほとんどの被爆者は、営舎外に置かれたとのことです。そして、あちこちに、重ねられるようにして「埋葬」されたと言います。
12.8.19子ども平和の旅・似島検疫所跡の碑.JPG

第2検疫所前の海岸。いくつか桟橋があります。
船で運ばれてきた被爆者の方々は、この桟橋で陸に揚げられました。腕をつかんで引き上げようとすると・・・、
悲惨な話がたくさん残っています。
この海に向かって平和養老館があり、その前には『原爆被爆者の慰霊碑』があります。被爆者の診療・看護にあたった部隊のみなさんが、建てた物です。
12.8.19子ども平和の旅・似島 臨海公園前の桟橋.JPG


1971年旧農業実習地から617体の遺骨が掘り出されました。そこに慰霊碑が建てられました。
遺骨のほとんどは、1日目に見た、平和公園内の原爆供養塔の中に、納められています。


練習してきた♪似島♪をみんなで歌いました。
12.8.19子ども平和の旅・似島慰霊碑前で似島を歌う.JPG
鎮魂と言っても、まだ何千体もの遺骨が眠っています。とても慰霊、鎮魂などとはまだ言えません。
12.8.19子ども平和の旅・似島慰霊碑前で .JPG


国の土地として、貸し出しをしているこういった場所にも、遺骨は眠っていると思われます。
しっかり発掘調査をして、慰霊・鎮魂の証を示した方が、よっぽど土地活用になると思うのですが。
12.8.19子ども平和の旅・似島慰霊碑の向かい側の土地.JPG


いっぱい見学しました。いっぱい歩きました。炎天下でした。本当に暑かったです。
帰りの10数分のフェリー、ようやく一息ついた感じです。
12.8.19子ども平和の旅・似島から帰るフェリー.JPG

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今年も広島へ 第5回静岡市子ども平和の旅 (その4) [子ども平和の旅]

今年も広島へ  第5回静岡市子ども平和の旅  (その4)

被爆者の方のお話を、平和資料館の地下会議室でお聞きしました。
江種さんは、学徒動員で、弾薬を運ぶ仕事などをさせられていました。
広島市内にあった弾薬庫を、広島湾の島に移すのです。
被爆当時は、椅子に腰掛けていました。
突然、広島市内側の頬が熱くなったそうです。
同じ頃、明かり取りの窓に向かってミシンを繰っていた女学生 やはり学徒動員
爆風で窓のガラスが吹き飛んできて
胸や腹に破片がささり、白いブラウスは真っ赤に!

12.8.18子ども平和の旅・江種さんの被爆の話.JPG
その後、江種さんたちは、広島市内を東から西へ歩きました。
その悲惨な光景は、資料館に展示されているものより、はるかに壮絶なものだったそうです。
そして、核兵器、原発のない時代へ、と説きます。
その江種さんも、被爆後25年、当時のことを語らなかった、語ることができなかったそうです。
広島、長崎、日本全国、世界中におられる被爆者の方々にも、まだ語っていない方が大勢いるのでしょう。
あまりにも悲惨な光景、思い出すと苦しくなる方々も多いのではないでしょうか。


でも、広島や長崎、ビキニ、福島  風化しないよう、風化させないように  これは、ますます
大事なことになっていると思います。


広電に乗って、広島駅へ。そこから15分ほどの旅館たなだへ帰りました。
F大の女子サッカー選手たちもいっしょに泊まっていました。

第1日目の夕食風景です。
12.8.18子ども平和の旅・旅館の夕食.JPG


4つの班に分かれて、今日1日の反省、学んだことを記録しています。
それぞれが、感じたことを発表しました。
原爆ドームから、平和記念公園、資料館、江種さんの話と、盛りだくさん
すぐには消化しきれない子も。
12.8.18子ども平和の旅・1日目ミーティング.JPG


さあ、第1日目の床の中で、みんな何を思っていたのでしょうか。
もしかして、ホームシックになっていた子もいたかもしれません。
1日目にしては、寝付きは良かったように思います。
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第5回静岡市子ども平和の旅 今年も広島へ (その3) [子ども平和の旅]

今年も広島へ (その3)

広島平和記念資料館は、入館料は大人50円、子ども(高校生まで)30円  今時安い!
東館から入って、本館へと、展示が続きます。
1時間程度では、とても見切れません。

平和記念公園のあたりには、当時住宅などが密集していました。
その様子が分かります。それなのに、どうして広い公園にすることができたのでしょうか?
実は、この下にまだ、多くの・・・、次の日の似島にもつながることです。
12.8.18子ども平和の旅・資料館 被爆前の様子..JPG
12.8.18子ども平和の旅・資料館 被爆前の様子.②.JPG


東館1階の柱には、たくさんの銘板が貼ってあります。
世界の核実験に対して、広島市長が当事国に送った『抗議文』です。
紋切り型ではなく、その都度の情勢を反映した内容の文となっています。
現在最後の599通目の『抗議文』は、アメリカ・オバマ大統領に対してです。
核兵器を最大の抑止力などとまだ主張する陣営があるのですね。
原発のプルトリウムについても、同じように言う人がいるのが、こわい。
この資料館に来るべきですね。
全部で12.8.18子ども平和の旅・資料館 核実験抗議文.②JPG.JPG
12.8.18子ども平和の旅・資料館 核実験抗議文.JPG


本館に向かうと、当時の遺品、遺物、被災の再現などを見ることができます。
ただ、この後お話をうかがった江種さん(えぐささん)によると、被爆者の様子などもっと悲惨だったということですが。
でも、目に焼き付いて忘れられない展示が続きます。


尚、資料館では、地下などでも展示が行われます。
この時、今年度第1回企画展として
『基町』
が、行われていました。副題は、「姿を変える広島開基の地」
基町というのは、広島城~相生通の北側~太田川(本川、元安川の上流)~旧広島市民球場辺りのことのようです。
67年前は、大本営、軍都の中心でした。
日清戦争の頃は、天皇が指揮を執り、国会もこの地で開かれたとか。

そして、原爆投下 その後の悲惨な様子、そして復興への道が展示されていました。

12.8.18子ども平和の旅・基町のパンフ.JPG  
表紙の写真、分かりますか?1962年7月の太田川沿い基町のバラック住宅です。
『夕凪の街 桜の国』  あの漫画や映画の風景が目に浮かびます。


さて、やや駆け足でしたが、資料館の見学を終えて、
地下の会議室で、被爆した方のお話を聞きます。


つづく
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第5回静岡市子ども平和の旅  (その2) [子ども平和の旅]

第5回静岡市子ども平和の旅 (その2)
今までの記録もこのブログ内にあります。参照してください。

広島平和記念公園については、
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/tour/tour_mai.html
を参照してください。位置関係、場所の説明が詳しいです。


原爆ドームから元安橋を渡って、元安川沿いに上がって、いつものように写真を撮りました。
後ろに原爆ドーム 注;この写真は載せていません。
『平和の鐘』  鐘をついて平和を願いました。

『原爆供養塔』では、どこかの団体が供養の行事をしていました。
上記のHPでは、
「   爆心地に近いこの付近には遺体が散乱し、また、川から引き上げられたものなど、無数の遺体が運ばれ、荼毘にふされました。1946(昭和21)年市民からの寄付により、仮供養塔、仮納骨堂・礼拝堂が建立され、その後10年経った1955(昭和30)年広島市が中心となり、老朽化した遺骨堂を改築し、各所に散在していた引き取り手のない遺骨もここに集め納めました。」「 土盛りの内部には納骨堂があり、一家全滅で身内の見つからない遺骨や氏名の判明しない遺骨約7万柱が納められています。広島市は、氏名が判明しながら引き取り手のない遺骨の名簿を毎年公開し、遺族を探しています。1955(昭和30)年に2,432柱あった遺骨のうち、今でも824柱の遺骨は引き取り手がなく、この供養塔に眠っています。(2007(平成19)年6月20日現在)」
とあります。
 広島市のHPによると、824柱は今は816柱になっています。でも、氏名が分かっても、いまだ引き取り手がないのは?
 しかも、それ以外にまだ7万人分もの遺骨が納められているとは。
 実は、2日目に見学する 似島(にのしま)からも、たくさんの遺骨が納められています。似島に住んでおられた方ではありません。では、なぜ?
12.8.18子ども平和の旅・原爆供養塔.JPG


この慰霊碑も、毎年立ち止まって考えてもらいます。
(注;この平和の旅は、毎年募集していますので、ほとんどの参加者が毎年かわります。)
なぜ、『韓国人原爆犠牲者慰霊碑』なの?
なぜ、韓国、朝鮮の方たちがたくさん広島にいたの?
これも、67年前の戦争を考える大事なきっかけになるといいな。
12.8.18子ども平和の旅・韓国人原爆犠牲者慰霊碑.JPG


事前学習会や、家に持ち帰って、参加者で鶴を折りました。千羽鶴にしました。
もちろん、『原爆の子の像』の所に飾るためです。
(色々な鶴?ができて、大変だったのですが)
12.8.18子ども平和の旅・原爆の子の像に千羽鶴を.JPG

「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」
佐々木禎子さん   2歳の時被爆して、でも元気に成長していたのに、白血病でなくなられました。
そのような晩発性放射線障害について、軽視してきたのは誰でしょうか。意図的?
昨年、広島市の比治山にある放射線影響研究所が、以前に行っていた「黒い雨」の調査を軽視していた(隠していた?)事実が明らかになりました。これも?
だからこそ、よけいに昨年の福島第1原発の事故と放射線のばらまき、気になります。
そんな思いも感じながら。
12.8.18子ども平和の旅・原爆の子の像に千羽鶴を②JPG.JPG
たくさんの千羽鶴が飾られていました。

尚、禎子さんの通った幟町小と幟町中は、広島駅と広島城の間にあります。3日目に歩く予定です。


この日も、暑かった!みんなで写真を撮る時、ひざまずくと、焼けるように熱い!
『平和の池』に、たくさんの鳩が入って、水浴びをしていました。

『平和のの灯』
『原爆死没者慰霊碑』(8月6日に、この1年間に亡くなった人や新たに死亡が確認された人、5729人の名前が書き加えられた28万959人の原爆死没者名簿が原爆慰霊碑に納められたということです。)
原爆ドームまで見通しながら、祈りを捧げました。


さて、次は広島平和記念資料館の見学です。
12.8.18子ども平和の旅・平和記念資料館.JPG
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静岡市子ども平和の旅 今年も広島へ(その1) [子ども平和の旅]

第5回静岡市子ども平和の旅
2012年8月18日(土)~20日(月)
子ども16人(小学生7人、中学生9人)
暑~い広島に学びに行ってきました。
何回かにわたって、お伝えします。

 7時45分静岡駅集合  遠い人もいたので大変でした。
12.8.18子ども平和の旅・静岡駅.JPG

新大阪でひかりからのぞみに乗り換えて、一路 広島へ3時間半。

12.8.18子ども平和の旅・駅ホーム.JPG
12.8.18子ども平和の旅・ひかり461.JPG

11時33分に広島駅に着くと、駅北西の旅館たなだへ。ここに大きな荷物を置いて、
まずは、腹ごしらえ。
行き先は、駅南の“お好み物語” 
ビルの6階にあって、お好み焼き屋がフロアいっぱいに軒を並べています。
今年のお店は、“きゃべつ”
スカスカじゃない、身の締まったキャベツをざくざく切って、
22人分が、鉄板に並べられていました。
12.8.18子ども平和の旅・お好み物語①きゃべつ.JPG
しばらく、おねえさんの手際よさを見つめていました。
12.8.18子ども平和の旅・お好み物語②きゃべつ.JPG12.8.18子ども平和の旅・お好み物語③きゃべつ.JPG
今年は、少食の子もいました。「もういっぱい。誰か食べる~。」
もちろん、しっかり請負人もいました。
毎年のこと、ゆっくり食べるけど、完食しちゃう子も。
12.8.18子ども平和の旅・お好み物語④きゃべつ.JPG


駅前から、広電に乗ります。町中は、大人150円、子ども80円。
少し南に下がってから、路面電車は西に向かいます。
『原爆ドーム前』で降りて、
原爆ドームを見上げています。
12.8.18子ども平和の旅・原爆ドーム.JPG

『広島平和記念公園』については、HPがとてもわかりやすくなっています。
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小5から中3まで対象に、子ども平和の旅 8/18(土)~20(月) [子ども平和の旅]

子ども平和の旅  今年で5回目


この夏、広島へ行って、核兵器について学び、戦争と平和について考えてみませんか。
静岡市内の小中学校の先生がいっしょに行き、みんなの学習をお手伝いします。
教室では学べない、生きた社会科の学習をしましょう。


対象は、
   (原則として)静岡市内の学校に通う小学校5年生から中学校3年生まで。

    定員20名で、多数の場合は抽選。

旅行期間

     8月18日(土)から20日(月)まで 
          (ただし、事前5回、事後1回の学習会あり)

参加費用  20,000円

         この参加費用と、静岡市教職員組合に寄付された「主任手当拠出金」でまかなっています。


         ※  同じ教育の仕事をする教員に、格差を付けないで、の願いで、支給される「主任手当」部           分を任意で組合に寄付していただき、子どもや教育のために使おうとする取り組みです。


日程

  8月18日(土) 朝早い新幹線で広島へ。   広島でお好み焼きを食べます。  原爆ドーム、
             平和記念公園見学。
             平和資料館見学    被爆者の方のお話を聞きます。

  2日目 19日(日) フェリーで 似島(にのしま)へ。  軍の施設があった所、被爆した人たちが運ばれて              きた所などを巡りながら、被爆した人たちの実態を学びます。

  3日目 20日(月) 班別行動で、広島市内の原爆、被爆関連施設を巡ります。
               3時頃、広島を出発。  静岡帰着は、7時か8時頃になります。


事前学習会  1回目  7/ 8(日)
               19時~ 
               会場  アイセル21
         2回目~5回目  
               7/16(日)、7/22(日)、7/29(日)、8/ 5(日)
               いずれも、14時~17時 
               会場  静岡市教職員組合会館
                    電話271-8438
                     静岡市葵区末広町1-4 
                      安西1丁目 谷川フルーツの交差点を末広中に向かって左

事後学習会  8/26(日)  10時~17時  静岡市教職員組合会館


参加申し込み
          メールで、 shikyoso@quart.ocn.ne.jp
郵送  〒420-0004 静岡市葵区末広町1-4 静岡市教組 平和の旅係 宛

          次のことを明記願います。
          1.参加者の氏名、よみがな  2. 性別   3.生年月日  4.学校名 学年
          5.保護者氏名   6.住所、郵便番号  7.電話番号(保護者連絡先)

問い合わせは、上記メールか、電話054-271-8438  静岡市教組へ


※ このブログ内に、今までの平和の旅の様子が、載っています。ご覧ください。





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第4回静岡市子ども平和の旅 報告その9 [子ども平和の旅]

第4回静岡市子ども平和の旅 報告その9

班行動は、広島城から本川小学校へ。
このルートで、迷った班が出ました。
スタッフが何回か携帯メールでやり取り。
地図上では、城から南に下りて、平和記念公園・原爆ドームを左に見て、相生橋を渡ればすぐ・・・
と分かっているのですが、実際歩くと、そうもいかないようです。

原爆ドーム.jpg

今年新たに、旧日本銀行広島支店が入りました。
地下ではイベントをやっていましたが、1階以上は、資料や折り鶴展示会場になっています。
今まで、原爆の子の像に寄せた折り鶴が、2階、3階に吊されたり、重ねたりして飾ってあります。
何と!! 3階に、「第2回静岡市子ども平和の旅」の折り鶴があるのを見つけました。
旧日銀広島支店11.8.22子ども平和の旅.jpg
日銀3階の折鶴.jpg
ここを、北に上がり、東に入ると袋町小学校平和記念資料館があります。
そしてそこを北に上がると、アンデルセン。
昼食は、アンデルセン。ここも被爆建物。上を見るとその面影が。
2つの班は、1階でパンを、1つの班は2階で食事。

などなどありまして、15時ごろには旅館に全員到着。
といっても、広島駅にギリギリに着いたスタッフが、旅館に戻る際、
なんと後ろから、何人かが走って追いついてきました。えっ?危なかった。

ほかにも、傘を忘れた事件などありましたが、広島駅でお土産を買う時間もあって、
何とか、無事予定通り帰静することができました。



8月28日には、事後学習会。みんなで、学習したことや感想、写真などを貼って
アルバム作りをしました。これが、結構時間がかかるんだ!?

報告集も出る予定です。

終わり
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第4回静岡市子ども平和の旅 報告その8 [子ども平和の旅]

第4回静岡市子ども平和の旅 報告その8

世界平和記念聖堂  幟町小学校のすぐ東側にあります。
   平和アピール1981年2月25日の冒頭は、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことです。ヒロシマを考えることは平和に対しての責任を担うことです。」とありました。


 聖堂から北に上がっていくと、幟町中学校がありました。西側道路沿いに、碑があります。8月6日に被爆・被曝した佐々木禎子さんは、幟町小学校6年生の運動会でも元気に活躍していました。しかし、その後、白血病を発症。中学1年生になった1955年10月25日その短い生涯を終えられました。その碑は、禎子さんを追悼するものでした。

広島・幟町中学校折り鶴の碑.jpg
広島・幟町中学校折鶴の碑2.jpg


  幟町中学校を北西に行くと、縮景園があります。広い庭園ですが、ここにも被爆した木が残っています。
縮景園.jpg


  縮景園から西に進むと、広島城の堀が見えてきます。戦争中、中国軍管区司令部がここにありました。
  昨年もそうでしたが、ここの立て札の文句に、しばし心が和みます。
広島城公園.jpg


  司令部跡の傍らに、被爆したクロガネモチの木が残っています。66年間を、どういう思いで見つめてきたのでしょうか。
広島城内被爆クロガネモチ.jpg

  静岡市の駿府公園のよりずっと大きい堀があります。
  余談ですが、なぜ城の堀は、水位を変えているのでしょう?駿府公園も、彦根城でもそうでした。淀まないようにでしょうか。
広島城の堀.jpg
  
 堀の脇に被爆したユーカリの木が立っています。被爆した後も、果敢にさらに枝葉を伸ばしていったそうです。
広島城被爆ユーカリ.jpg

  3つの班は、10時半過ぎには、広島城の中国軍管区司令部防空作戦室跡の見学を終えたと、ポイントのスタッフから連絡が入りました。 防空作戦室跡は、地下にあります。頑丈な、ぶあつい壁が入り組みますが、その中は、コンクリートに囲まれた、ただの空間です。事前に予約をすれば管理人室から鍵を借りて入ることができます。8月のNHKの番組でも取りあげられていました。

  どの班も、この後は「本川小学校」を予定に入れています。

つづく
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第4回静岡市子ども平和の旅 報告その7 [子ども平和の旅]

第4回静岡市子ども平和の旅 報告その7

追;似島を結ぶフェリーには、似島の詳しい歴史を綴った冊子が、500円で売っています。

激しい雨に打たれ、身も、財布も、下着までもびっしょりになりながら、
心は打たれずに(なんのこっちゃ?)、旅館について、早めの風呂を浴びて、
少し休んだら、食欲も旺盛!
夕食風景です。
11.8.21子ども平和の旅夕食2日目.jpg

もちろん目的の“学び”は忘れません。豪雨の中でも、また、似島の蚊の攻撃の中でも、
学んだことはいっぱいありました。
未だに、島には遺骨が埋まったままになっているということ。
それを知らない人も多いこと。
馬の焼却場で、遺体を焼いたという悲惨な話。・・・
11.8.21子ども平和の旅ミーティング2日目.jpg
班で出しあった後、代表が発表しています。

夜、1日目も2日目も、夜中の出来事はいろいろありますが、ここでは、な・い・しょ・・・

さて、3日目最後の日は、いよいよ班行動。
事前学習で、地図や観光案内などを参考にして、9時から15時までの班行動の計画をたててあります。
子どもたちにとって、やっかいなのは、広島市内を回る際に、決められたポイントが5つ指定されていること。
そして、旅館“たなだ”に15時には戻らないと、指定の新幹線に乗り遅れるかもしれないということ。
広島駅で買う予定のお土産も買えなくなってしまう。家族がまってる~。

さて、ポイントとは、
一つ目は、広島城内の中国軍管区司令部防空作戦室跡。
二つ目は、本川小学校平和資料館。
三つ目は、昼食場所としての アンデルセン。(この建物も旧帝国銀行広島支店の跡で、被爆建物です。すぐ近くに袋町小学校平和資料館があります。)
四つ目は、旧日本銀行広島支店。
五つ目は、広島市役所旧庁舎資料室

これを回るのは、結構大変です。(でした。)
11.8.20~22子ども平和の旅旅館たなだ.jpg
3つの班は、それぞれ旅館“たなだ”を、決めたルートに従って出発しました。
広島駅方面に向かう班は、「JAPAN47」 広電に乗ろうということでしょう。昨年は広島駅辺りで迷った班がありましたが、今年は?
あとの2つの班、「EKT」と{タモリ」は、京橋川を渡って、世界平和記念聖堂に向かいました。
11.8.22班行動出発.jpg

さて、無事に行き着くことができるでしょうか?
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第4回静岡市子ども平和の旅 報告その6 [子ども平和の旅]

第4回静岡市子ども平和の旅 報告その6

 似島(にのしま)  荷の島とか、富士山に似ている山のある島とか。
 宇品港(広島港)から、フェリーで20分。そのため、日本軍の検疫所が造られました。戦争から帰った兵隊さんたちは、先ずここに上陸して病気がないか調べられたそうです。
 また、弾薬貯蔵庫もありました。弾薬庫の入り口の壁の厚さを見てください。その弾薬庫を守るためのトーチカ(歩哨塔)もあります。
 原爆投下当時は、(戦争から帰る人たちが少なくなったから?)検疫所の役割はなかったようですが、医者や薬があるだろうと、1万人もの被爆者が舟で送られて、桟橋に着いたそうです。
 ところが、1万人の中で、広島市内に帰って行った被爆者は、5百人だけ。あとは?
 学校の運動場や住宅を改修している時、遺骨がたくさん発見されます。最近でも。そうです。まだ多くの遺骨がこの島の土中に、あるいは、海岸付近に眠っているそうです。
 ヒロシマの原爆被害は、66年たっても終わっていません。


さて、フェリーに乗って、似島へ。まだ、のんびりムード。
11.8.21子ども平和の旅似島へ船の中.jpg
11.8.21子ども平和の旅似島行きの船.jpg

ところが、学園桟橋に着き、下船したとたん、しのつく雨。
あっという間に全身ずぶぬれ! 説明の声も届きません。
11.8,21子ども平和の旅大雨の似島.jpg
似島小学校跡.jpg

雨宿りを、平和養老館の玄関でさせてもらいました。
尚、フェリーでいっしょだった走ろう会の方々は、すごい雨の中を走っていました。老齢の方も多く、見ていて心配になるほど。(でも、その内のひとりの方と話したのですが、残念ながら、広島市内の方ですが、似島の歴史はご存知ありませんでした。)
11.8.21子ども平和の旅平和養老館の前で.jpg
学園前桟橋案内図.jpg
似島青少年の家.jpg
11.8.21子ども平和の旅似島慰霊碑前2.jpg
11.8.21子ども平和の旅似島慰霊碑前.jpg
歩哨塔.jpg
弾薬庫入り口.jpg
11.8.21似の島帰りの船.jpg

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